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お届け物
ドリーム小説 鎖蝶の名を口に乗せてから、は夜中に飛び起きるようになっていた。
その日も、夢に出てきた男が忘れられず、簡単に女装して邸を飛び出した。細い月が目に入る。
『鎖蝶』
そう呼ばれながら、何晩窓から月を眺めただろう。
『君は月の光に憧れて、けれど一生眺めるだけしか出来ない。鎖に繋がれた蝶だよ』
洗脳するように言われた言葉。
だからだろうか、が憧れたのは月にはほど遠い、眩し過ぎる太陽の光だった。
月はいつも遠い所にいるだけたったけれど、代わりに太陽は近くまで来てくれたから。



楸瑛には頷いたが、は朝までいるつもりは全く無かった。倒れたときに紅家の影が助けてくれなかったのは意外だが、黎深の命令だったのかもしれない。何はともあれ全て筒抜けであろう。藍家に関わったと言うだけで黎深は煩いのに、朝までいたら何を言われるかわかった者ではない。二刻程して、は楸瑛邸を抜け出し、一端適当な路地によって藍家の影を撒かせ、明け方には邸で寝台に滑り込んだ。絳攸を起すにはまだ少し時間があった。幸い夢は見なかった。
浪燕青はかなりの戦力を戸部に提供してくれていた。並んで判を押したり、訊かれた事に答えたりする日が続き、戸部を出る事は数えるぐらいしかなく、徹夜もした。心配をしてくれる秀麗や景侍郎には悪いが、はこの状況が有難かった。戸部外へ出なければ、朝食中怒っていた百合姫や黎深、楸瑛に会うことはまず無いからだった。だが、七日に一度の休日は来でしまった。出仕すると言ったのだが、自分でも気付いていた体力の限界と、其れに伴う速度の低下を黄尚書に指摘され引き下がった。
邸に戻ると待ち構えていた家令によっては百合の前に連れて行かれた。後ろにぞろぞろと侍女が続く。
「え」
わらわらとの周りに侍女が集まってくる。皆見知った顔だ。
「よりによってまたあの藍家の若造よ!絳攸に近付くだけじゃなくまで……」
煌びやかな服に言われた通りに腕を入れた。
「百合姫様」
「何!」
ゴリゴリと何かを潰す音がやみ、ぐるっと、百合は体を回転させを見た。其処には着飾られる少女が一人。
「これは何でしょうか」
「何って女装にきまってるじゃないの」
「いえその事ではなくて、この布の事です」
「ああそれ絳攸と御揃いで手に入れたのよね。ただの貢ぎ物だから似合わなかったら捨てて良いわよ」
どうやら絳攸も女装させるらしい。今日は早く帰れそうだと言っていたのを思い出す。私達はこの人から逃げられない定めの様だ。
翌日、休日だと言うのには外朝にいた。手には小さな籠と書翰の束。無くなっていた物らしいが、絶対に仕組まれていると感じながら目的の吏部の門を潜ると、其処は地獄絵だった。ふらっとに目を向けた官吏がそのまま二、三回瞬きをして叫ぶ。
「俺も、もうだめだ。娘の幻を見るなんて!」
「私はあなたの娘ではありません」
ある程度慣れているので聞こえるようにハッキリは答えた。その後も声をかけると皆一様に叫び出したが、気にせず次々と声をかけて行く。
「すみません」
「はい?………後宮は大分遠いですよ」
「いえ、私は女官ではありません。紅尚書か李侍郎にお会いしたいのですが」
「もう、帰って来ても良いのですが。待たれますか」
「はい」
は部屋の隅にある若干他より綺麗な机案に連れていかれた。
「では、此処に座っていてください。おい提英!お客様にお茶を。………女性だぞ丁寧に淹れてこいよ」
「え、女性!?」
提英と呼ばれた官吏が声を上げ、書翰に向っていた官吏達が一斉に自分を見た。視線が痛い。を見たままぞろぞろと集まった官吏達の間を縫って、提英からお茶が渡される。
「ど、どうぞ」
「ありがとうございます」
提英がそこらから余り紙と筆を持って再びやって来て、の向いに座る。その横に先ほどの官吏も座った。弥衝と名乗り、彼は再度の名と用事を聞いた。それを、提英が綺麗な字で書いて行く。先程と同じ答えを返し、は手に持っていた籠と書翰の束を弥衝に見せた。
「わかりました。では、散らかっていますがここで待っていて下さい」
中身を見、提英の筆が止まると、弥衝は集まっていた官吏達を追い払いながら仕事に戻って言った。去り際に彼が追い払われた官吏達は、しばらくするとまたの前に集まって来た。そんな官吏達の中に、本当に悪鬼の様な顔色の者を数人見つけ、懐を探りながら声をかけた。
「あの、随分顔色が悪いみたいですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、この頃徹夜続きだったので。それにこの暑さもありまして」
「じゃあ、これ飲んどいて下さい」
「え」
貰って良いのか困惑する官吏に、は安心させる様に微笑み、再び数日分を差し出した。
「霄太師の友人の、葉先生から頂いた薬の残りです。良かったら貰って下さい」
「はあ…」
同様にして調子の悪そうな数人に手渡した頃、黎深が室に入って来た。官吏達が自然と空けた道を無言で進んでくる。はにっこりと笑顔で迎えた。
「………なぜお前が来る」
「百合姫様におしゃって下さい」
不機嫌そうに、絳攸への伝言を残した黎深に続き、も尚書室に足を踏み入れた。



が茶を淹れ、黎深の前に差し出す。
「あなたの指図かと思っていたのですが、違ったようですね」
「ふん。藍家の若造という所は気にくわないが、今更だ」
「それは、どういう意味ですか」
「わざわざ私に言わせる気か?」
うっ、とは言葉に詰った。これに関しては明らかにの方の分が悪い。
「遠慮します。ところで、影の方は」
「お前付きの影が一人負傷しただけだ。百合はどうなっている」
「十分、絳攸と私とで発散出来た様ですよ」
「そうか。で、用件はなんだ」
「無くなっていた書翰と……これです」
書翰をその辺に、饅頭の入った籠を机案に置いた。懐紙が無かったので、そのまま黎深に手渡す。受け取った黎深は、手中のぷくぷくした丸いものが何か分からなかった。
「………なんだこれは」
「点心です」
「見えんだろう。まだ小さい饅頭と言われたほうが納得できる」
「でも、前の饅頭よりはらしいですよ。ほら少し膨らんでますし、具の味も一応します」
ぱくぱくと点心を口に入れて行く。
「食べるんでしょう?」
「当たり前だ」
「その愛情の半分でも……」
「うるさい」
不器用と言うか何と言うか。養い子に対する愛情は、もしかしたら彼の中で二番目になるほどあると言うのに、殆ど表に出さず、ゆえに絳攸は気付かない。よくこれと百合でまともな子に育ったと思う。「不味い」と言いながら黎深は残さず食べた。茶を飲み終わった頃、尚書室に絳攸が入って来た。
「………」
姉への呼び名に迷う絳攸に、名を名乗っていなかったと気付く。
です。おひさしぶりです李侍郎」
「おひさしぶりです、様」
にお前が様付けする必要は無い」
「敬語もですよ」
こく、と絳攸は頷いた。
「……何をしてるんだ?」
「お茶ですよ。絳攸様もいかですか?」
「いや、俺は主上の所に行かなきゃならない」
「あら、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
これを届けないと、とは籠を持ち上げた。黎深と吏部官に軽く挨拶をし、絳攸と共には主上の所へ向かった。楸瑛がいない事を祈りながら。
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