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五日六日ばかりの辛抱
ドリーム小説 ある日戸部への帰り道、は見てはいけないものを目撃した。前方の光景に、暑さとは関係無しに体から汗が出て行くのがわかる。
「秀君はほんとうにいい子だねえ」
これは白昼夢だろうか。
「また馬鹿なことしてますね。あのひとは」
「楊修さん」
気配なく横に立った吏部の覆面は、呆れた顔をして前方を見た。どうやら見慣れているらしい。
「吏部もやっぱり人手不足だそうですね」
「いつもの事ですよ。まあ、あのひとのせいで昏倒する官吏が多いのは確かみたいですけれど」
「親が迷惑をかけます」
「おや、初めて聞きましたね。あなたが親などと口にするのは」
「………そうでしょうか?」
「ええ。それに」
揚修がを見る。
相変わらず仕事能力は高いようだが、少し前この少年はもっと硬質で鋭利な雰囲気を纏っていた。尊敬しているのだろう黄尚書や、紅尚書、李侍郎など数名以外の前では決して隙を見せなかった。自分でさえ及第直後に彼の覆面をしていなければこの変化に気付くことは無かっただろう。今はその程度の微妙な変化だが、もしや本人が自覚すれば。
「暫く見ない内に、ずいぶんまっすぐになりましたね」
「?」
「話し方ですよ。何かふっきれましたか?」
は迷うように楊修から視線を外し、それからはにかんだ。
「………ふっきれたと言うか、安心したと言うか、よくわかりません」
「そうですか」
「……楊修さん」
「何ですか」
は楊修をまっすぐ見た。まるで、嘘や気休めを見抜くかのように。初めて見たわけではないその目。鋭利さは変わらない。
「まっすぐになったのは良いことでしょうか」
「…………さあ、それはその人によるでしょう」
「そうですね。例の御史台の情報。役に立ちました」
「今あなたが動いて、潰される訳には行きませんからね」
「本当にどうして私なのでしょうね。……あの人何とかしましょうか?」
前方で未だににこにこと秀麗と話している男を指差す。
「いえ、しばらくしたら勝手に帰って来るんで良いです」
そう楊修が断ったので、そのままは戸部へと再び向かった。
途中で三度も担架とすれ違い、他部署も大変だと思っていると、不意に袖を引かれた。
振り返ると、担架の上にいる見知った戸部官と目を合わせる事になった。
「高官吏」
「すみません。私と遜史、兼丁です」
「わかりました。私達の事は気にせずゆっくり休んでください。………彼らをお願いします」
の声に担架は再び動き出し、は足早に歩を進めて戸部に入り、書翰を置いて黄尚書の前に立った。
「三人も倒れられたみたいですね。苦肉の策ですが……燕青殿を施政官にしてもよろしいでしょうか。浪燕青は雑用には勿体無い」
「わかった。指示して来い」
黄尚書に頭をさげ、は戸部の奥に進んた。
「燕青殿」
背後から呼び止められ、大工道具一式を抱えたまま燕青は振り返った。
「あー李官吏」
誰だか確認して初めてこの少年の声が少し高い事に気付く。けれど、さすがに秀麗よりは低い。
「少し、持ちましょうか?」
「いや、い…っておい。意外と強情だな」
返事を聞く前に、奪い取ったに燕青が呆れる。
「秀くんならまだしも、私はこれぐらい持てますから」
「一緒だろ。も秀と同じぐらい細いじゃないか」
「そうですか?……それでも男ですよ」
秀麗がバキッと音を立て梯子から落ちて来た。両手が塞がりは受け止めれない。変わりに後ろにいた燕青が、片手で受け止める。
「ああありがとう燕青!」
「おう、わりい、ちょっと遅かったみたいだな。姫さ…秀、怪我ないか?」
は脇に持っていた大工道具を置き、燕青に大丈夫と返した秀麗の脇をすり抜けた。心配そうに秀麗を見ている景侍朗に声をかけ、戸部の状態を告げた。
「高天凱、碧遜史、それに吋兼丁が倒れられました」
「ええ?あのお二方に吋官吏まで!」
ばさりと落ちた書翰を拾い上げると、蒼白な顔をした景侍朗がいた。折れた梯子を直していた二人が顔を見合わせる。
「うわーついに三人も倒れたか」
「お二人は年を召されていたし、吋官吏も今朝は大分調子が悪そうでしたものね」
その言葉にはきつく唇を噛んだ。無理している事がわかっていたのだから、今朝顔を合わせた時に、無理にでも休ませるべきだったのだ。身近な部下の体調さえわからない上司なんて、お笑い種だ。沈んでいたは燕青の釘を打つ音ににハッとし、指示する事を思い出した。
「後、五日六日ばかりの辛抱です。今を乗り切るためにも、燕青殿には今から臨時戸部施政官になっていただきます」
「……はい?」
「任命書は後で私達が作っておきますから、釘を打ったら、すぐさま戸部へ戻って下さい。これでも施政官は四名でしかいません。異論はありませんね?」
「ちょっと待ってください!こんな髭もじゃ男にそんな」
「黄尚書から了解は取ってあります。大丈夫ですから、秀君は彼のぶんも雑用をお願いします」
同意を求めて視線を送ると、景侍朗は迷う事なく頷いてくれた。



布の音では目を覚ました。見慣れない豪華な天井に首をかしげる。ここはどこだろう。ぼんやりとしながら椅子の下に落ちた布を拾おうとして、は動きを止めた。その姿勢のまま、急いで昨日の記憶を探る。なぜ藍色の布がここに。
結局が動きを再開したのは暫くたってからだった。
トン、トンと一定の間隔で決して速くない、むしろ落ち着いた音が近付いて来る。
何となく女性用の服の乱れを直す。そんな事をしても、もう外套の持ち主にはばれてしまっているだろうけれど。
「起きてたんだね。大丈夫かい?」
こく、とは俯き加減に頷いた。なぜか室の入り口に立つ男と目を合わせるのは憚られたのだ。上質な衣の音をさせて、男はの迎に座る。興味津々ではないが、何とも居心地の悪い視線が向けられているのがわかる。けれど思考はだんだんと目覚め、動き始めていく。本当に気付いていないのか、気付いてからかうつもりなのか。
先に沈黙を破ったのは男だった。
「そんなに警戒しなくても良いのに。私は藍楸瑛。君は?」
「……………リン、と申します」
「一体どうしてあんな所に倒れてたんだい?」
リンはわかりませんと楸瑛に向って首をふる。この少女に特に見覚えがある訳ではない。けれど、馭者からの報告を聞き倒れている少女を見た時から、何かが引っかかっていた。
「よく覚えておりませんが、本当にありがとうございました」
丁寧に少女は頭を下げた。
「両親が心配いたしますので、邸に戻りたいと思います」
「今日は泊まっていったらどうだい?」
邸へ入れただけでも兄達から何か言われるだろうに。身元の確認だけでもすましてから返さなければならない。しかし、それでも帰ると言う。相当警戒されているらしい。ここまで来ると怪しさが先に出る。それを向こうも感じ取ったのだろう、わかりましたと言ってしぶしぶ頷いた。
「君は誰かに似ている気がするのだけれど?」
自分で訪ねて自分で驚いた。なるほど、ある女性が言っていた「口からお生まれになったのではありません?」と言うのはあながち嘘では無いかもしれない。しかし、少女は首を少し傾けただけだった。
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