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朝廷に人材募集中
ドリーム小説 紅家別邸にて、はここしばらくのんびりと暮らしていた。
景侍朗が復帰した後、は春の件で、夏中は邸にいる事を主上より命じられた。
けれど仕事はしていた。毎日上司からは絳攸経由で山がやって来ていたし、自主的にいつもよりも多くをこのしていた。ただ、にはそんな事は全く苦ではないだけだ。
あえて言うならば、女性の姿をして過ごすことは余りしたくなかったが。それも心配したと言う百合の願いなら仕方がないと思っていた。
投げられた石が、ぽちゃん、ぽちゃんと音を立て水の上をはねて行く。
は面倒そうに置かれた書類をちらりと見、そして向いに座る者に尋ねた。
「どうしてもと」
「はい」
戸部の門をくぐって以来、に就いている兼丁は、この暑さでも相変わらず涼しげである。年の功か、が何をしようと驚かない彼はまた、明らかに年下に見えるに付いて来てくれる人物でもあった。
「主上は何と?」
「先日朝議にて、困ってる時はお互い様だとおっしゃいました。命令ではありませんが、幾ばくかは各省庁より人材が来るかと思われます」
気だるそうに庭を見ていたは再びちらりと、先ほどから置かれている書類を見た。
「現時点で、使える物は私を含めて精々十人と言った所でしょうか。他の人材は期待しないほうが良いでしょう」
もしや、この男は吏部の方が向いているのではないだろうか。だとしても悪鬼巣窟の吏部の長官が変わらない限り――つまり紅黎深である限り、渡すつもりなど全くないが。
はぱちと扇を閉じた。
「解った。着がえたら行く。後、主上に人材を期待していますときつく釘をさしてくるように」
「畏まりました」
去って行く部下を何となしに見送った後、は深くため息を付いた。
仕事に戻るには男装に戻らなければならない。男の服を着るという事は、女の服を脱ぐ。
つまり百合を何とかしなければならないという事だった。
「絳攸の女装で我慢してもらうか」
そう一瞬にして弟を犠牲に決め、は着替えをし、城に向う。
そこはたしかに危機的状況だった。廊下にはほとんど人がおらず、いつもはへの挨拶を欠かさない戸部の官吏達も、反応が鈍い。
「あ、李官吏。来てくれたんですね」
景侍郎はいつも通り嬉しそうに声をかけてくれたが、その机のまわりには膨大な資料が
詰まれたり転がったりしていた。とりあえず使い終わったもの返そうと腕の中に抱え込む。立ち上がると、一つ巻書がすべり落ちた。それを景侍郎が拾う。
「この間はすみませんでした。何故か急に体が重くなってしまって」
「い、いえ」
は思わす声を詰まらせながら答えて、急いでは戸部を後にした。
その事については謝られても正直とても困るのだ。夏の初め、急に起こった景侍郎の体調不良。その原因は、自分が直接手を下したわけではないが、こちら側にあった。願わくば黄尚書がそれに気付かない事である。
府庫の中はとても涼しかった。いや、正確には風は涼しくはなっていないのだが、日光の遮断と風通しの良さで、涼しく感じられるのだ。と同じ事を考えた者もいたようで、府庫では数人の官吏達が休んでいた。邵可に資料を返し、戸部に帰ろうとしたは、ふと思いたって工部に足を向けた。
「いつまで飲んでるつもりですかこの酔いどれが!」
「けっ、この決済は終わったから。もうどんだけ飲もうがオレの勝手だろうが」
この暑さにも変わらず、工部からは喧嘩の声が聞こえていた。もっともこの二人においては、この状態が最も早く仕事を進められる。
「ここがまだです!大体、酒は衣に匂いが移るでしょうが。少しは換気をしたらどうなんですか。あなたのせいで他の官吏がどれほど倒れてると………おや、じゃないですか」
入ってきたに管尚書はにっと笑った。
「おお、酒か
「何、と酒をイコールにしてるんですかあなたは。毎回お酒を貰ってるなんて恥ずかしいと思わないですかこの鶏頭!」
「別に」
「あなたが思わなくとも工部官は恥ずかしいんですよ!」
「管尚書、欧陽侍郎」
少し高めの声が響く。
「はい?」
「なんだ?」
「御久し振りです。早速ですがどこまで出来上がりました?」



戸部に帰り、さあ働けとばかりに上司に押しつけられた仕事を、せっせと片付けていたは、ふと一枚の書翰を見て手を止めた。どうもおかしい。ひっかかった何かを確かめようと、脇の巻書を開き確認する。やはり。上司達に報告して見ると、しばらくして、主上に持っていくよう言われ、は再び戸部を出た。回廊に出たところで、思わずは手で前髪をかき上げた。暑い。
急ぐ事も無いだろうと、周りから見たら優雅に歩いていたは主上の執務室の前で足を止めた。中から大笑いが聞こえたからだ。もしやこの声は藍将軍かと思いながらは執務室の扉を開いた。
「あははははは!くっ…やあ、殿」
「主上、戸部からの書翰です」
「ちょ、殿。無視しないでくれるかい?」
楸瑛の言葉にはこくと首をかしげて言った。
「失礼ですが、この暑さで藍将軍もお疲れなのだろうと思っていたのですけれど」
つまり、おかしくなったのかと。ぶっと劉輝が背後で噴出す音がした。
「い、いやそう言う訳じゃないよ」
「ではどうしたのですか?」
そう、がきくや否や、楸瑛はまた笑い始める。は眉を顰めた。やはりおかしくなったのではないだろうか。かわりに理由を劉輝に尋ねると原因は劉輝の夢だったらしく、事細かに話し聞かされた。しかし話し終わって、「悪夢だ」と呟いた劉輝はの表情を見て首を傾げた。
「どうしたのだ。そんな顔をして」
言われては自分の顔を触ってみた。そんな顔と言うものになっていたらしい。ただ少しその夢を思い浮かべたけだったのだが、自分の表情も分からぬなどおかしな事である。
もしや暑さにやられたのは自分の方だろうか。しかしはその考えを否定した。いくら自分とて一日と言うのはいささか早過ぎる。
「お気遣いありがとうございます主上。では失礼します」
そそくさと退室しただったが、しばらくして少し後を付いて来る人物に気付き歩をゆるめた。
「何の御用でしょうか?」
横に並んだ楸瑛にそう聞くと彼は苦笑いを浮かべた。
「明日、秀麗殿の所にご飯を食べに行くんだけれど殿もどうだい?」
「結構です」
「静蘭に会うのが怖いかい?」
「どうしてですか」
「会いに行ってないのかと思ってね」
「会いに行こうが行かまいが私の勝手です。人の生活に足を踏み入れないで下さい。それに、私にしてみればあなたの方が意外ですよ」
「私?」
楸瑛が足を止め、も半歩先で立ち止まった。互いの目が合う。
「春の件でいくら主上が謹慎ですましたとは言え、貴方にも思う所があるはずです。嫌われさえすれども、このように話しかけられる事は無いだろうと思っていましたので」
「じゃあそれに免じて夕飯に行こうじゃないか。絳攸も行く事だしね。ちなみに秀麗殿のご飯はほんとうにおいしいよ」
「………そうでしょうね」
秀麗の味はまだ覚えているが、この分では六年前よりも腕があがったのかもしれない。
「おや、食べた事があったのかい?」
「ええ」
言ってしまってからは思わず小さく舌打ちした。ごまかすように了承を告げる。
「…わかりました。戸部の仕事がもし片付いたら行ってもいいですよ」
「じゃあ文を出しておこう。帰りに絳攸と一緒に迎えに行くよ」
やられたとは思った。弟の前で仕事が終わらないなど、の矜持が許さない。それを考えると明日は夕食に行く事になるのだ。はあと吐息をついては歩き出した。
「嫌われたほうがよかったかもしれませんね」
「私は君に嫌われてなくてよかったけどね」
別れ際にそう言われては言葉に詰まった。
は普段、静蘭にも負けを取らない。なのに何故、藍将軍に負けるのだろうか。いささか疑問だと思った。

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