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さて、旋風は今
さて、旋風は今 「こちらが、暫く家で預かる事になった様だよ」
彩雲国に入ったその日の内に、は偽名を名乗り紅家長男の邵可の家の門をくぐった。
「初にお目にかかります様。私は紅秀麗と申します。さしたるおもてなしもできませんが、どうかごゆるりとおくつろぎください」
朝廷三師の霄太師からの紹介となっているせいか、秀麗の挨拶は跪いて両手を胸の前で組み合わせての、完璧な跪拝だった。
「お立ちになって下さい秀麗様。私、やっと気をはらなくて良い所に来たつもりです。私は居候になる身、ただと呼んで下さい」
「解らない事があれば私達に何でも聞いてくださいね」
「はい。邵可様」
「様はいらないんだけれどね」
「いえ、様付きにさせといて下さい」
そう答えたは、押し黙ったままの家人の視線に、頬を染めることなく真っ向から見返しつつ笑顔で秀麗に尋ねた。
「秀麗様あの方は秀麗様のお兄様ですか?」
「へ?……ああ、彼は静蘭、うちの家人よ。朝廷で武官をしているわ」
秀麗に紹介され静蘭は挨拶を口にした。
「静蘭とお呼びください。様」
「…そうですか」
相手にだけ分かる様、意味ありげに視線を静蘭に送っただったが、急にぱっとお腹を押さえた。
もしやと秀麗が思った。
。あなたご飯は食べた?」
「あ…ごめんなさい秀麗様。私、朝から何も食べてませんでした」
細身のの答えにすぐさま秀麗は台所に向かった。



外はもう漆黒。
湯浴びをし、借りた衣に袖を通したは目的地に向かって歩き出した。
一歩、歩くごとに、ギギッと木の床独特の音がする。少しだけ音を出すために意識してゆっくり歩いているので、十分怪しく見えているだろう。
唐突だが今が初夏で良かったと思う。もう少し暑かったら絶対自分はこんな事が出来なかっただろう。最近知ったことだが、どうやら自分は夏が苦手らしい。またこれも最近知った事だったが、反対に寒さにはかなり強いらしい。らしいというのは極限まで(意識がなくなるまで)試した事がないからだ。
暑くなると、まず書類消化速度が遅くなり、次に行動が遅くなり最後は意識が無くなる。
それが夏の日光のせいなのか気温のせいなのか、はたまたあのジメジメした湿度のせいなのかはわかっていなかったし、自分の体を犠牲にして調べるつもりなど全く無かったが。
話を戻して、今の目的地は広間(いかにもコソ泥が目的地にしそうだったからだ)だが、それまでに相手は来てくれるだろう。いや、来てくれなければ困る。まだ広間には人がいるかもしれないからだ。
がわざわざ霄太師の名を使わせてもらったのは今夜のためだった。朝廷三師の霄太師の知人なら殺せない。
そうこうしている内に明かりの漏れている広間が近づいて来た。
中にいるのは邵可だろうか。
片手を戸にかけた瞬間、首筋にひんやりとした空気を感じた。
剣が首の真横にあてられている。視線で促され、そこを離れて、まだが訪れた事のない部屋へと連れて行かれた。
「あの霄太師をも誑かした賊にしては素人すぎませんか」
「……タヌキを誑かす?そんなの死んでもやりたくありませんね」
「あななたは何者だ、何が目的で」
「六年後………生き残った第六公子の劉輝様が王位につくでしょう」
言葉を遮られた事に苛立ちを感じつつ、出てきた名前に、話を中断するのを静蘭はやめた。
「だからどうだと言うんです?」
露骨なほど警戒心の含まれた返答には笑う。
「別に……もし近くに行く事があったら……兄だと名乗らなくてもいい、見守ってあげるぐらいしてあげて下さいね」
朝からずっと府庫にいた。そんな彼は、傍目から見ても余りにも寂びしそうだったから。
「貴様、私が誰か知って!」
一瞬で首に当てられた剣先に、は顔色一つ変えずに答えた。
「ええ、知っていましたよ。むしろ知らない方がおかしいですよね、タヌキの知り合いなのですから」



静蘭の出て行った数分後、は体を壁にもたれさせた。途端、汗が噴出し、頭痛がはじまる。今日は力を使いすぎていた。
のろのろとは自分の白い喉元に触れ、覆った。もう、傷なんて残ってはいないけれど。
「噛み付いたくせに」
静蘭と話し始めてから、はずっと、少し胸の痛みを感じていた。小石のように小さい痛み。悲しんでいるというのか自分が。彼が自分を忘れた事に。
彼が忘れたのは無理もない、彼の人生に触れたのはほんの少しの間だった。
しかもは全て放り出し、清苑の元を去った者だ。自分に悲しみを感じる権利など無い。
それでも、生きていてくれた事を嬉しいと思うのは本当だった。
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