果ての向こうまで続いて見える長い長い道。
でも重なっていく。一枚ずつ。花降る森のように。
想いだけが、音もなく。ただひたすらに。
しんしんと。



想巡



 桜の花弁を手渡すことが出来ないのは、もう、いつの頃かもわからぬ昔から知っていたことだった。
今、傍らに広がる冷たい感触の寝台には、あの頃のぬくもりの欠片も残ってはいない。けれど、劉輝はそれで構わないと思っていた。望むことが容易ではない願いに、中途半端な甘さは毒と化すだけである。優しさも哀れみも、そんなもの何一つ必要としてはいない。気の長くなる遠い道のりを歩むに邪魔となるだけだということを、彼はよく知っていた。
 ―――彼女が以前、小さな掌から作り出した刺繍を見た時、やはり彼女は"創ることが得意な女性"なのだと思った。秀麗が小さく気にしている彼女の手は、何もかもを新たに創る。
それは自身の思いに関係なく、刺繍も、人との繋がりも、暖かな菜も、とうとう最後には自分の想いまで、気づきもしないまま、手際良く。
あっけなく離された手に、不安を覚えることもなく。笑顔のまま。

 もう手渡されているであろう桜の刺繍に、特別な意味などもはや無い。
特別なものなどもう、残ってはいないのだ。明かりの消えた寝台の上に寝そべったまま、窓から降り注ぐ月の光を甘受していた。突き刺す眩しさと柔らかな感触を併せ持つ月の光は、けれど脆いものであることも劉輝はとうに知っている。
 軋んだ音を立てた寝台で身体の位置を寝返ると、猫の毛のように柔らかな長い髪が王の頬をくすぐった。その毛先にさえ、劉輝は穏やかに目を細めて見せた。揺らいだわけではない。
 寒さの厳しい冬を越え、もうすぐ春が訪れを告げるだろう。氷だらけの中にあって傷ついているであろう少女の肌も、春の風とあたたかな景色にゆっくりと回復する筈だ。その傍らに自身が立っていないことは、預言者でなくともよくわかる。泣くように苦笑した。
 そんな秀麗を癒す、最初の春でありたいと、桜の花弁を贈ったのだ。本物の花弁はおろか、手渡すこともままならぬ状況を理解して尚。
その花弁は、彼女に春の喜びを与えただろうかと、劉輝は考えた。まとまりのよいしなやかな髪が動きにしなる。


――――何もないその夜は、眠れなかった。


 一枚の花弁が、秀麗の頬に舞い降りた。
寒椿が時期はずれに近い頃合だという事実に、秀麗は困惑を隠しきれない。冬が終わり、春が来る。茶州の凍った川や湖が本来の潤いと色彩を取り戻した今、彼女はその地にいなかった。遠く何日も足を運んだ空の下に、今、改めて立っていた。
柴凛に、朝賀同様の寒椿をと頼んだら困ったように首を振られたのである。時期ではない、と。確かに、と頭の隅で秀麗は朧げに思った。
寒椿は真紅の花弁の堂々たる花である。朝賀の前に散々丁重に断り尽くした花でもあったが、今ではそれをこの黒髪に飾れる自分が嬉しい。
それを、もう一度見せたかったのかもしれないとも思う。けれど髪を飾る柴凛を困らせることは本意ではないからと、花は彼女に任せたままだ。
 それでも。それでも贈るのは寒椿しか自分にはない。
幾度か通った道のりが、眼前に広がっていた。赤い絨毯と両端に一直線に装飾された金銀の見事な刺繍。鳳凰が、竜が、虎が、開けるには大きすぎる
扉の前に沈黙し座していた。開く直前の重厚な音に肩がいつも微かに動く。開かれた華々しい空間に圧倒されるが、それも少々の間だけであった。
秀麗も劉輝も、やはり官吏と王であった。

「ああ、良かった見つけたよ。久しぶりだね秀麗殿。健やかにいらせられたかな」

冗官としての沙汰を改めて告げられ、踵を返した秀麗に凛とした声色が響いた。
優しげな相貌は彼の全てではない。秀麗は冬にその事実を体感していた。武官としての彼を間近で見たものそういえば初めてであった。
無言で跪礼をとろうとした彼女に、この場は勘弁してはくれないかと苦言を漏らし、後から近づいてきた同僚に振り返る。

「馬鹿かお前は。宮城での規律を守らんでどうする」

「やだなぁ絳攸。ここには私たちしかいないのだからいいじゃないか。君だってそわそわしながら扉の前で、待っていたくせに」

おかしそうに暴露する将軍に、冷徹の視線をぶつける文官が一人。
微かに頭を垂れたままの秀麗の肩を小さく叩くと、話があったんだよと美麗の武官は微笑んだ。

「・・・は、私に何か?」

「うん。実はね、朝賀で君が帰ってきたときには失敗してしまってね。今度こそ君の手料理と笑顔をご馳走になりたいと思ったものだから」

「・・・・・・っお前は余計なことを言わずに用件だけを言えんのか!あ、いやその際は訪ねたがお前がいなかったものだからな」

手料理が食べたいと、宮城で憚らずに頼んでくるのはこの二人だけに違いない。その事実が妙に心浮き立たせ、秀麗はふわりと微笑んだ。
構いません今夜でも、と話を進める。本当に珍しい偶然か、周囲を官吏が通ることはなかった。
ふと、思い出したように秀麗が尋ねた。所々に備えられている中庭の池の水面が反射して眩しい。

「その、お客様の数はお二人ですか?・・・・・・もう一人は」

紡がれた糸が終わったように、秀麗の言葉もそこで終えた。二人の上官は思わず互いを見やった。

「俺たちだけだ。・・・・・・忙しいと断られた」

憮然とした様子は否めない様子だった。そうですか、と少女はあっけなく引き下がる。
その様子にもおや、と将軍が眉を上げたが、少女は気にした様子もない。どころか、立ち話が長くなってしまいましたねと会話を打ち切ろうとした。
廊下の曲がり角のむこうから、声が聞こえてきたのである。
そうだな、と足早に踵を返す文官を余所に武官の方はやんわりと微笑んで楽しみにしているよ、と片目を瞑った。
その楸瑛を、いきなり秀麗は衣をつかんで呼び止めた。

「ら、ら、藍将軍っ」

「な、んだい秀麗殿」

衣を掴むなど意外であった。楸瑛も不思議そうに振り返る。絳攸は既に曲がり角を曲がったようだった。
一瞬躊躇った秀麗の手が、袖に伸びた。かさりと乾いた音を立てて真紅のそれが楸瑛の目の前に転がったのだ。
楸瑛は、目を微かに見開いた。

「秀麗殿」

「これをどうか。届けてはいただけませんか」

 おそらく、楸瑛はあの花弁の刺繍の贈り物を知らない。知る必要がないからだ。秀麗はそれを正確に理解しているつもりだった。
答えを待っている王のことも。だから王である為にあたたかい場所を捨てようとする劉輝を止める術を持ち得なかった。けれど想いだけは。
この想いだけは返せるものと信じている。
怯むことなく強い目を、秀麗は返した。
何も言わずに受け取った楸瑛は、そのまま穏やかな眼光の余韻を残して立ち去った。



 朝の清清しい空気が、生暖かく滲んだ春のそれに取って代わろうとしていた。陽光は花を愛で、鳥は風を謳う。
執務室の窓から覗く見事な白い花弁の桜を、劉輝は戸を開けて眺めていた。
水彩の画料の青のように、美しく染まった空が綺麗だった。見上げれば劉輝に降る陽光も、さえずる鳥の声も春めいて可愛らしい。
強い風の塊に、桜の樹がしなろうとも、劉輝は黙ってそれを見つめていた。
 誰かが部屋の中から声を掛けたらしかった。しかしふと振り向くと、周囲には誰もいない。
朝の謁見と昼の執務との合間に入る移動を兼ねた息抜きの時間を邪魔するものは少ない。最近、ことに少なくなったようにも思う。
しかしそれが正しい在り方だというのなら、王として曲げるわけにはいかなかった。負けるわけにはいかない。
秀麗が、傍らで采配を振るう力を持つその日まで。それからの平和な日々の暮らしの為に。
 わかっていながらも尚、人恋しいかと己を自嘲して、ふと眺めたままの視線が机の上に置かれたものに目を留めた。
息を、呑んだ。
首を傾げて近づくと、劉輝の机に置かれた手が一度震えた。柔らかな布地の感触と、仄かに香る懐かしい香が胸に満ちる。

「―――― 秀、麗」

声に出すと、愛しすぎる(あいしすぎる)と思った。そう、自分は彼女を愛しすぎた。
薄紅の絹の布地に、大輪の寒椿の刺繍。一輪のそれの造花。
布地を抱くように、ゆっくりと、胸に寄せた。この柔らかさは、秀麗の思いと同じ。
彼女は理解していた。わかってくれた。ただ愛すること。
そして、想いを伝える術もまた、同じように返された。想い同様に。
玲瓏な輪郭の美しい相貌が、ふやっと泣き顔の幼子へと移り変わる。
泣くな、と自分を叱咤した。

「余は、」

震えても、伝えたかった。
風に流されても空に舞っても、いつかは必ず彼女の元へ届くだろう。そう思った。
強い風は再び吹いて、豪奢な紫の衣を翻した。硝子の窓に風が当たって壊れた音を立てる。
刺繍の針一針に、想いが篭ることを劉輝は既に知っていた。この大きな寒椿の刺繍だけで、十分だった。

「愛している、余は――――」

そなたを愛しすぎた。
愛している。
愛している。
だからどうか、どうか―――――



―――― 祈りの行方は、わからないまま。