泉のように、滝のように溢れ出る想いの奔流を、どう制御したらいいのか。
藍色に潜む夜の呼吸に、優しい二胡の音が、遠くから胸に響いた。
愚かさすら、この想いの前には愛おしい。



紫花


かなしい、やさしい、いとおしい音。
忘れないで、と囁いた男の声は、いつしか自分の声に変わっていた。忘れないで、想っていて、そして
――― 愛していて。
理不尽だ。わかっている、そんなことは。利己的で、保身的な自分の欠片を、どうしたらいいのかすら、秀麗は迷う。走って走って走り続けて、自分は何処へ行くのだろう。
 久方ぶりの登城は、ひどく緊張する。喉が渇いて言葉を紡ぐのが難しい。震える足は既に慣れた、けれど。けれど感情のない冷ややかなあの目を見つめるのは―――今でも躊躇われる。

劉輝。

劉輝。

劉輝。

 忘れないでくれ、と彼は囁いた。強い懇願であることを理解して秀麗はいつの間にか頷いていたけれど、それは今ではとても苦痛だ。忘れないと、苦しい。あの愛おしさを含んだ目に慣れていた自分は王という冠の前にただ跪くことしかできない。
 冷徹な王は、秀麗を同じ目で見据えた。思いを一切切り捨てた目で。

「余は、そなたを愛している。けれどいいのだ。秀麗は余を忘れないでいてくれれば、それいい」

 朗らかに笑う声はとても遠い。夢と間違う程に霧と靄に掠れてあの優しい微笑が見えない。愛しているなら、それだけで全てが手にできるなら。けれど秀麗は、それが全てを捨てることだと理解していた。

 だから。
と、秀麗は震える唇に両手を当てた。劉輝は何も悪くはないのだ、と、強く目を瞑って胸に荒ぶ嵐が静まるのを待っていた。だから。…だから、城の端で見かけた女官とのやりとり一つに、こんなに自身が揺らぐ。自覚している自分に嫌気が差すのはこのような時だ。
 あんなに離れて立っていた王が、ふと視線をこちらに向けてきた時、双眸が驚きに見開くかと思ったのに。言葉にしなくとも、昔のように微笑んで見つめてくるとばかり思ったその視線に温度はなかった。
 ちら、と向けられた視線はすぐに女官へと戻り、そこでは微かな微笑を湛えて踵を返したのだ。
 あの瞬間の戦慄を、秀麗は知らなかった。鉛を溶かしたように重い足を叱咤して城を駆ける。後から後から次々に溢れてくる胸を突き上げる慟哭にも似たものに、秀麗は押し潰されそうだった。

やさしい、あのひとを。
いきたままにころしたのは、私なのに。

 人気のない小さな中庭へと辿り着くと弾む息に胸を抑えた。古い建物や壁の多いこの付近は倉庫として用いられることが多く、滅多に人は近寄らない。
 は、と白い息を吐いた。途端、ここまで堪えていた衝撃が秀麗の身体を震わせる。官服が汚れるのも構わず石の壁にもたれた身体のまま、ずるずるとしゃがみこんだ。
 顰めた顔に、顰めた眉に、くいしばる唇に。感情が見え隠れする。

「――― お嬢様」

近くで乾いた足音がした。身体を庇うように丸くなって俯いた秀麗は、厳しい声で家人を律した。はっと気づいたときには遅かった。目を瞑ったまま、一度たりとも静蘭に振り向くことはしなかった。

「来ないで。―― 来ないで」

 お願い、と声にならない悲鳴が静蘭の身体を刺した。ぐ、と押し留まった静蘭は、微かに目を伏せ、次の瞬間には気配を消した。
 こんな自分を静蘭に見せるわけにはいかなかった。泣き縋ることなど以ての外である。劉輝は悪くなどない。全ては身勝手な秀麗自身の咎であるということを、秀麗はよく知っていた。

 こんなに、弱くなっていた。 優しい笑みが自分の元を去っても構わないと口にしていたくせに、笑みを向けられないでいることがこんなに耐え難いことだと。
こんな自分は嫌い。
こんな自分にした劉輝も。彼との思い出は全て。
こんなにも。

ああ、こんなにも。

 涙は出なかった。そのまま、目を開いたまま、震える自分を抱きしめていた。薄暗い空気の気配が近づき、遠くで鐘音がしても、秀麗は留まっていた。震えることなど許せなかった。愛してくれていた劉輝も、彼の男も殺したのは秀麗だ。
 震えも恐れも感傷もこの場で消し去らなければならなかった。優しさはいらない。そう言って二人の心を斬ったのは自分なのだ。
なのに。

あたたかい匂いがした。懐かしい香が秀麗を包む。と、薄紫の絹衣が秀麗を覆った。
はっと顔を上げれば、じっと見つめてくる王の顔がある。

「な、……」

「このような処で何をしているのだ。そなたは風邪を引きやすいのだろう。自覚が足りないか」

 顰められた双眸に、秀麗は全身の温度が急激に下がったのを感じる。同時に顔から火が出るかと思った。自覚の言葉は官吏に付くと容易にわかる。は、と吐いた息は白く、激情もそこに紛れてしまった。眉を上げた劉輝に、秀麗は震える身体を無視して礼をとった。
 と、一歩、劉輝の身体が後ずさる。先程の秀麗のように大きく息を吐くと、強い力で秀麗の腕をとった。あまりの強さに秀麗は息が詰まる。主上、と顔を上げて言いかけた途端、劉輝の顔は傾いて唇を奪っていた。
 秀麗の顔が歪む。見開いた目に涙が滲み、深い口付けの前にそれは頬を伝った。

強い力で抱き寄せられる。項に添えられた手は秀麗を逃がさなかった。
やめて、という言葉は口付けの波に浚われた。柔らかく長い髪が秀麗の頬を滑る。

「名前で呼ぶと、言った………!跪かないと…っ」

血を吐くように吐き出した掠れた声に、秀麗は表情を崩した。

だってだって。
あなたが、あなたが私をすてたから。
その前に、私があなたをすてたから。
だって、ねえ、聞いて。

言葉は重ならず、搾り出すような嗚咽の後また口付けられた。きつく抱きしめられたまま。
秀麗の頬は幾筋もの涙で濡れている。
乾いた風の音しかしない、城の僻地。
乾いた心のひびは、風化の音にまた一つ、広がった。
 唇だけに広がる小さな熱に、秀麗は泣きながら衣を握り寄せた。豪奢な柄の見慣れた衣をきつく握る。恋人のように、深く絡めとるように。二人の口付けはそっと幕を閉じた。

「もう、いいでしょ……何しにきたの。あんたは私がいなくっても生きていける。待っている必要だってないし、意味だってないわ」

「そんなことは、余が決めることだ。……今日の秀麗はおかしい。本当に、どうしたのだ」

「馬鹿じゃないの…馬鹿みたい。あんたは今一人じゃない。他にたくさんの人がいるわ。さっきみたいに、目を逸らすことだってもう簡単にできるじゃない。―――――王様だものね」

「何、を―――」

「そんな気持ちで近づかないで!もう、どうしてこんな気持ちにならなきゃいけないの…もういやよ。さっきみたいに―――」

思わず秀麗は言葉を呑んだ。劉輝が玉座に在る時のように厳しくこちらを見据えていた。激情は収まってはいなかった。吐き出した気持ちに、身体が、指先が震えた。瞳が揺れる。
劉輝は何も言わず、ただ静かに秀麗の指をとった。美しい王の相貌が翳る。

「余が愛しているのは秀麗だけだ。他はいらぬし、その気持ちに変わりはない」

「そんな、こと…」

「―――― 妬いた、のか?」

信じられないという声色に、少女の頬は焼け付くように紅潮した。
囁き声は近かった。耳に強く唇が当てられ、秀麗は思わず目を瞑った。
―――-…酷く、熱い。
両手が顔に添えられると、劉輝は目を細めて微笑んでいた。
けれど、それは笑みというよりも、泣き顔に近い。

「劉輝?」

「そなたは本当に、勝手だな。懸命に見ぬふりをしてもこのように―――余を惹きつける」

 秀麗の顎を指先で捉えると、傾けて首筋に強く口付けた。息を呑む音が聞こえ、ゆっくりと唇を離す。長い睫を震わせて、目を伏せたまま劉輝は震え掠れた声で呟いた。

「……今朝、余がどれだけ他の男に嫉妬したか、知らないだろう。美しくなって帰ってきたそなたを、余がどれほど」

どれほど抱き寄せたかったか。

本当に狡い。
あの時も朝賀の際も、冷徹を装い、懸命に視線から目を逸らした事実を、秀麗は知らない。勝手に傷ついた少女は、本当に身勝手だとわかるくせに、それでも手放せないのだ。

「もう一度、言おう」

秀麗の頬に、触れるだけの口付けが下ろされた。いつの間にか絡んだ指同士は熱を孕んでいる。涙に揺らぐ秀麗を愛おしく見つめると、そっと囁いた。

「愛している――――そなただけを。余には、そなたしか、いない」

官吏である以上、余は耐えよう。そなたの為に。



そう言い残し、彩雲国の王は踵を返した。



乾いた風は夜風に混じり、紫の花は俯き隠れた。往く宛てのない想いを抱えた少女が落とした涙の雫も願いも全て、王が抱えたまま。
互いの熱のない闇夜が、幕を開ける。