水が際限なく泉から湧き溢れ出るように、
奔流の如く翻弄されていく。流される。濁流のように。

――― どこへ、行き着くのだろう



白闇




州牧宅の一角で、秀麗は彷徨うように歩いていた。
時刻は夜半。数少ない住人のほとんどが今は眠りについている頃である。一度香鈴を先に寝かせ、秀麗は部屋を出た。
未だ茶州の夜は冷える。それでもその効果か、月夜の晩―――今宵のような夜には青の溢れる美しい光景を目にすることが出来るので、月明かりの晩はこうして城を歩くのだ。もちろん、目的があってのことだが。
秀麗は早々に一つの影を見つけた。月光の強い今夜は、人影の姿形も明瞭に映してくれる。後姿とわかる男は髪を垂らし、雅な衣を一枚羽織っただけの軽装である。
ぼうっと浮かび上がるように、虹色にも近い光彩が男の輪郭を纏う。振り返らない男に秀麗は思わず片手を上げ、そして静かに息を吐きながらそれを下ろし、くしゃりともたれるように男の背へと身体を預けた。
薄衣を通しても、男の熱はあまり感じることが出来ない。秀麗は目を微かに閉じた。瞬きに、足元の石砂利が夢のようにも思う。

「どうした?」

「…… 特にどうしたわけでもないわ」

特別に、選ばれた者のように感じるのは何故だろう。先の光彩とて、秀麗の夢うつつに惑わされてできた幻想かもしれない。それでも、それだけでも理由になるような気がした。秀麗は顔を押し付けるように深く抱きついた。
男の――― 青年の笑む吐息が、夜風に紛れて聞こえた。
静かに、凪いだ海のように落ち着いた声色で、龍蓮は秀麗の名を呼んだ。漂っていたいと思う。この衣の中に、ずっとずっと漂っていたい。そうすれば、何処かへ消え去るような既視感の不安もない。明日の不安も。
けれどその声に抗うことができなきなかった。身じろぎした秀麗に、龍蓮は苦笑したようで振り返る。難しく眉を顰めた秀麗はただの幼子のように稚い。長い睫を瞬かせて眼で微笑むと、龍蓮の手が秀麗のそれをゆっくりと掴んだ。
ゆっくりと。そう、時がたゆたうように穏やかに流れていく。秀麗は抵抗もせず、龍蓮の傍らに近づいた。

「そうはとても見えないが」

頬を撫ぜる掌の温度は低い。元々こうなのだから、夜だからというわけでもないのだろう。微かにしか感じないその温度に、頬を預けて秀麗は目を閉じた。
閉じていれば、視線を合わせた時よりも穏やかに話が出来るような気がした。

「ううん、本当に・・・ 何かあったわけじゃないの。なんとなく、そう、なんとなくよ」

月に自然に愛されて、消えてしまいそうに見えたとはまさか言えない。
真実愛されているように思うから、尚更だ。
龍蓮はといえば、そうかと小さく頷くと秀麗に微笑んだ。返すように、秀麗も見上げて笑んだ。
夜の冷えた風のような吐息が、秀麗に触れた。月明かりが龍蓮によって塞がれ、その逆光に音もなく目を閉じた。
口づけは幾度も行われる。啄ばむようなそれに秀麗が微かに笑むと、嬉しそうに龍蓮の顔がほころんだ。龍蓮の体躯は比較的華奢な部類だが、小柄な秀麗が抱きつく分に不自由はない。
追いかけてくる唇がくすぐったく感じたのか、身体を反らせている内に龍蓮の背にしがみつく。倒れてしまってはと慌ててそうしたものの、知ったように龍蓮はそれでも深く絡んでくる。
俯くように目を伏せた龍蓮は、陶器の人形のように美しい。
仙人が美形だったらきっとこんなかんじね、と秀麗は場違いにも思う。
は、と吐息が二人の間に弾む。

「こ、んなに長く、しなくても」

「私はもっと長くてもいいくらいだが?…… 秀麗、どうしてそのように瞳を揺らす?」

さら、と秀麗の手に龍蓮の髪が触れた。幾度か梳くように触れると、うっすらと男の唇が微笑んだ。あまり見ることのない真剣な微笑に、秀麗はほっと息をつく。
真性の変人だと騒がれることが多い彼ではあるが、変人というのはおかしいという意味ではない。正常な思考回路が人と異なるだけなのだ。今この時のように、秀麗と重なることも少なくはない。
心配してるの、と問えば間髪入れずに是と返る。
その顔が幼く見えて、秀麗は両腕を男の背に回す。すぐに掬うように抱き留められる、そんな慣れた仕種が嬉しい。

「ありがと。龍蓮が……」

「私が?」

「羽でも何でも生えて、どっかへ飛んでいきそうだと思ってただけよ」

「――― 心外だぞ、秀麗。私は此処にいるではないか」

「…・・・ そうね」

そう。今ここで優しく慈しんでくれる龍蓮は、秀麗の傍にいる。
「藍 龍蓮」とは、誰かに理解されるような人物であることを望まれはしないのだと、本人は言った。けれどそれ以前に、それを望まない本人がいるのだから気にも留めてはいなかったのだ。
けれど、と秀麗は思考の隅で思う。
いつまで、この傍らに居るのだろう。政治も人間関係も思惑も、そういった枠を越えて生きる人間である彼が。この州牧としての責務を助けてくれるのも、本来であれば龍蓮の好まないものであることは確かである。

「――― いつまで」

「……む?」

「いつまで、茶州にいるの」

「そなたが望むなら、いつまでも」

嘘だ、と思う。嘘に近い。
秀麗が私の傍に、という言葉を呑み込んだように。そう、と息を吐いて龍蓮の首筋に頬を擦る。
日中のピカピカな非効率極まりない衣装だけを好むように思われがちな龍蓮だが、実際には夜は今のような薄衣を好むこともある。秀麗が似合うと褒めたせいかもしれないが、月夜の逢瀬では見慣れた格好である。
その衣に、秀麗は縋るように身体を寄せた。
淋しいのだろうと、思う。
けれどそれは、甘えなのではないだろうか。
ただ純粋に好意を寄せてくる彼に、秀麗は終わりを思う。
彼がこうして佇んでいることは、本来好まれることではない。
秀麗と連れ添うことは、政に龍蓮を巻き込むことだ。
知っていて、龍蓮は秀麗を抱き寄せる。躊躇いなく。恥らいなく。

「龍蓮」

傍らの影が動く。月明かりの青光に照らされて、美貌は白く浮かんでいた。
秀麗は強い眼差しで、静かに告げた。

「…… 私は、官吏をやめるつもりはないわ。ずっとこうして生きて生きたい。―― 死ぬまで」

龍蓮の表情は動かない。無表情に淡々と、覗くような瞳が秀麗を射る。
秀麗は微かに震えて自由にならない唇を隠そうと、手を口に当てた。
言葉を紡ごうとしたのか、龍蓮の口が開き、微かに息を吸う音がする。秀麗は思わず身構えた。
すると、素早くその手を取られ、唇を落とされる。見上げてくるその視線に、秀麗はうろたえた。

「そのような目で、何を言うかと思えば」

「え」

「月の宵だけ見せる不安も原因はそれか。私は自由に生きている。此処にいるのも、強制されたからではない。愚兄たちや王が何と言おうと私の全ては変わらない」

だから、と秀麗の額にそっと口づける。
懐いた獣が甘えるように、笑う。

「私は私だ。秀麗が望むのではなく、私が望んで此処にいる。そなたの傍を離れるつもりは毛頭ない」

「でも。そんなの良い事じゃないわよ」

知っているでしょう、と諌めるように。秀麗は視線を逸らした。
屈託なく笑う恋人に、秀麗は頬を染めた。それが悔しくて腕の中から抜け出すと、傍を歩く。
追いかけることもせず、龍蓮は秀麗に言った。

「いや、構わない。私は私だと言っただろう。何も変わりはしない。秀麗、そなたが案ずることなど、何もないのだ」

「…・・・ いいの、本当に ……」

「無論」

「け、ケッコンだってさせられちゃうかもしれないのよっ」

「何か問題あるのか?」

だって、と秀麗は振り返り、音もなく歩いてくる龍蓮を待った。
頬に触れる両手に、ごめんなさいと震える謝罪が龍蓮に告げられる。

ごめんない。巻き込んで。
それでも好きなの。
何処かへ行ってしまわないで。

「月に誘われようと、私は此処に居る。自然が私を呼ぼうと、万象が囁きかけようとも、私はずっと、そなたの元にいる」

これを、好きと言うのだろう?と。
堪えきれず流れた涙が、男の衣に静かに滲んだ。



月は無言で二人を照らす。