声無き声が宙を彷徨う。

その、涙をどうか。


涙涙


「藍将・・・じゃない、楸瑛様」

見慣れた藍邸で、秀麗は覚束なくも覚えていた扉へと手をかけた。既に陽は沈みかけ、濃厚な影を映している。
ちょっと席を外すと告げて引っ込んだ男は未だに室内の中だ。薄着の秀麗にこの時期の夕暮れは肌寒い。
軋んだ音の一つも立てない手入れの行き届いた扉は、ひんやりとしていた。硬質なそれに施された装飾の鳳凰に、秀麗は感嘆に目を瞬く。
けれどまずは楸瑛だ。

「しゅうえい、さま」

窓に手をかけたまま。男は立ち尽くしていた。
窓を開いたようでもない。美しい景色を前に出来るこの時刻に窓を閉じてしまうような男ではない。なのに昼の薄着のまま、楸瑛はそこに立っていた。
秀麗はかけた声が微かに震えてしまったのに眉を顰める。これでは敏感な楸瑛にいらぬ心配を掛けてしまう。
室内は思うより暗かった。男が立ち尽くしている窓の他からは朱色を帯びた陽光が静かに注がれているが、閉じられた一帯だけが異様に暗い。
顰めた眉が強くなった。
衣擦れの微かな音だけを残して、秀麗は楸瑛に歩み寄った。気配に気づかぬ彼ではない。それでも常のように振り向いて微笑んではくれなかった。

「しゅ・・・・・・・」


知っていた。


言葉が唐突に浮かんで秀麗の胸を突いた。
伸ばした手は小さく、そしてゆっくりと下ろされる。

知っていたでしょう。この予感を。
秀麗はきつく目を瞑る。
知っていた。見ているようで見ていない遠い視線。口づけの合間に垣間見える瞳。穏やかなままの笑顔。
そう、そんなこと。

楸瑛はビクリと肩を震わせた。その肩に小さな白い手が触れている。
慌てて楸瑛は振り向いた。

「秀麗ど・・・・」

その仕種を遮るかのように。秀麗は強く男の腕を抱き締めた。
頬ずりするように大切に、顰めた眉はそのままに。

「知っていました」

最初から、という言葉に沈黙が響く。
少女の吐いた吐息が聞こえて目蓋を伏せる気配がした。

「言わなくていいんです藍将軍。誰かなんて問い詰めたりしません。貴方を責めたりなんか絶対しない」

「――― 君は」

「私はたくさんの大切なものをもらいました。教えてもらったものもたくさんあります」

「なんの話だい、一体。私は何も」

「誤魔化さないで。今だけでいいんです。楸瑛様、私は」

「違うんだよ秀麗殿。本当に何も・・・・・・・」

楸瑛は見上げてくる強い視線に言葉を止めた。
少女の口から零れた唯一の言葉に、心の臓が止まる感覚さえ。





「私は貴方を愛してる」

だから、いいんです。苦しまないで。泣かないで。





微笑んだ頬に散った雫だけが、夕陽に光り。
それすらもやがて闇が幕を閉じた。