空しさを知っていた。
憐れみも、知っていた。
虚ろも懐古も後悔も儚ささえ知っていた。

――― 強さとは、



曇晴



宮城からは幾度も怒声が響いてくる。その多くが「こん・・・・・・ッの馬鹿王がっっ!!」であったり、「わ、わわわわかったから!もう一度考えるから全集を投げ飛ばすのは止めてくれ!」だの、朝廷にあるまじき品位のものばかり。
主君のおわす執務室から三十歩ほど遠く。中の様子は窺わずとも手に取るようにわかる。予想通りの騒ぎがここまで聴こえ、楸瑛はなんとも言えない顔をした。
今室内に入れば足に縋る主君と片手で持ちきれない分厚さの書物を投げつける同僚との間に挟み撃ちになる。ま、ここまで連日続けられるとは大したものだけど、と一人ごちる。
国試への女人受験導入案が朝議を通ったとはいえ、煮詰めなければいけない懸案は山のようにある。改正を含め、新たに導入すべき試験制度、規律、一般への公布に対応できる研修など、それこそやるべきことは王の執務室だけでは入りきらないと言っていい。
ましてや。発案者である王は、補佐の絳攸が控えているとはいえ、毎日が朝議で質問や批判の嵐に遭っていた。発案者が叩かれることは致し方ないが、此度の件は正に字の如く前代未聞である。その対応にここ数日は缶詰状態なのであった。
その間一歩も、どころか帰ることすらままならない王相手に、身辺警護の役を仰せつかっている楸瑛にできることといえば、昼寝とお茶と昼寝くらいである。
そう。昨日も一昨日も途中退室した自分に、二人は一向に気がつく気配がない。むしろ執務机の傍を固めている懸案の書簡に思考の全てを吸い取られ、睡眠どころではないというのに楸瑛どころなどとんでもないのである。

「阿呆か貴様・・・・・・!!!」  「・・・・・・ヒ・・・・・・・ッ!・・・」

最後の怒声を背後に、将軍はまたしても宮城を抜け出すことに成功したのである。


「暗誦というものはね、ただ闇雲に読んで書いたりするだけじゃ効果がない。意味や背景を先に勉強したかい?『七経』は確実に全て抑えておきたいが」

「はい。全て勉強しました・・・・・・けど、実はどうしても稽疑の大法の項が覚えるのが難しいんです。何度か繰り返して暗誦しているんですが、時折不安定になってしまって」

「では稽疑の暗誦を今日中に完璧にしてしまおう。復習は大切だからね。それで『七経』は全て網羅できる筈だったかな・・・・・・一通りあれは教えたよね?」

「ええ、本当にわかりやすくって。藍将軍は教えられるのもお上手なんですね」

「ふふ、褒めても私が喜ぶだけだよ。秀麗殿」

宮城から四半時分ほど離れた華々しい飯店の奥に、二人の姿はあった。賑やかな賑わいを見せる店内から一つ奥の小部屋に、楸瑛はいた。
どちらも試験のことで気を揉むならばと、飄々と楸瑛は秀麗の教師をに名乗りを上げたのだ。賃仕事を休んでいる今の期間だけは、秀麗も毎日勉強に専念することができる。机に向かって筆を滑らせることは無論するが、それだけでは超難関といわれる国試を突破することは難しい。
多くの場合、受験者は裕福な家の出身の為に家庭教師に役人を登用するのはさほど珍しいことではない。

――― だからこれは必要なことだよ。君も利用できる全てを利用して、全力で臨みなさい。

秀麗は黙って頷き、今に至る。
試験の勉強は順調だった。大まかに教師の立てた予定よりも早く進んでいるといっていい。
秀麗の場合、全くわからないという白紙の状態でなくどの項がわからないのかを明確に質問してくるのだから答えることは容易であったし、巨大な書物などなくとも楸瑛は秀麗の暗誦する全ての間違いを指摘することが出来た。覚えていれば書物など必要ないよと片目を閉じ、秀麗に心の底から溜息を吐かせたのはつい先日のことだ。
集中の為だと少女を説き伏せて飯店で勉強するのにもようやく二人共が慣れてきていた。真剣に筆を滑らす秀麗に、同じ卓へ肘を付きながら楸瑛は楽しそうにそれを見やった。
お互いの会話など無きに等しい。質問と返答か、朗々と紡がれる高い声に素早く簡潔な低い声が混じるだけだ。
ふと、緩い風が楸瑛の鼻先を掠める。おや、と楸瑛は顔を窓の外へと向けた。
その仕種に秀麗も同じ方を見やる。

「……おやおや。どうやら外に躑躅(つつじ)が花開いているようだね」

掠れるように微笑んだ男に、少女は微かに眉を寄せた。
あまりこういう類の笑い方をする人ではないように思うのだ。

「躑躅、ですか?私には見えませんけど」

「いやね、この香りに慣れているものだから。確か以前、この香りが好きだと仰る女性がいらした。ま、どうでもいい昔のことだから良くは覚えていないけどね」

それきり、教師の方は口を噤んだ。一度秀麗は促すように楸瑛を見たが、諦めたのか視線を書物と紙へ戻す。気にさせてしまったかな、と苦笑するような声色に、秀麗は硬く否と答えた。
過ぎた問いかけだったのだろうと、その意志が伝わってくる。楸瑛は可愛いものを慈しむように、秀麗の頭を撫でた。かくり、と揺らされた頭に首が動き、秀麗の筆が止まる。

「藍将軍?」

「ああ、ごめんごめん。でもね、随分君が可愛かったものだから」

そういうことをさらっと言えるのは、おそらくそれが彼にとっては何でもない例えば「今日はニラのお鍋にしましょうか」程度の価値しかないからだ。秀麗はそう言い聞かせ、それがわかっていても滲むように広がる朱色の頬を隠すように俯いた。
思わず筆を机に置く。そしてそれを咎めもせず。ちらりと目線で問いかけた秀麗は、目の前の男の顔が随分近くにあることに今更ながらに気がついた。毎日此処で顔を合わせてはいても、無心で机にのめり込む秀麗にとっては、楸瑛を改めて眺めたのは初めてかもしれなかった。
ふと、秀麗は一つずつ男を形作っている部品を丁寧に見やる。

柳の如く。けれど凛々しさを損なわない整った眉。
男性的な顎から喉にかけての輪郭。なめらかなそれは、彫像のように整っている。
すっと通った高い鼻。伏せた目の長い睫。
肘を付いた掌も、衣の藍も、楸瑛の為だけにある。楸瑛だけのものだ。
微かに息を零す唇も、口づけられる女性は幸運だろう。
けれど、と秀麗は思う。

「藍将軍は――― ご結婚はされないんですか」

「んん?」

視線が秀麗にぶつかって、秀麗は思わず息を詰まらせた。唐突過ぎただろうか。いやそれ以前に思えば――今日は思えばだらけだが――楸瑛とこうして間近で視線を交わすのは初めてかもしれない。
口調の穏やかさに紛れてしまうが、それのない楸瑛の視線は鋭敏だ。
背筋を何かが走りぬける。一瞬の戦慄に秀麗は目を瞠った。……それが、恐いとは感じなかった自分にも。

「ケッコンねぇ。私には夢物語のような言葉だよ。お年頃なことは自覚しているけれど、この世に魅力的な女性がいる限り、私は生涯現役でいるつもりだから」

「なんです、それは」

ぷ、と秀麗が吹き出した。声を立てて肩を震わせる、少女らしい仕種に楸瑛もふと相貌を崩した。
幼い少女にはまだ早い話かな、と脳裏の隅を横切ったものの、楸瑛は話を続ける。
話し相手として、幼いが目の前の少女は聡い。話し相手として飽きることはない。

「特定の相手と生涯を連れ添うというのはね、どうにも難しいことだろう」

「どうしてです?」

秀麗はきっぱりと問い返す。その迷いなき質問に、今度は楸瑛が目を止めた。
ああ、と秀麗に笑みを零す。秀麗は、楸瑛のその顔に泣きだすのかと一瞬驚いた。
薄曇の曇天が、二人の小部屋の小さな窓から薄ら寒い風を流し込んでくる。
何故だろう。秀麗は胸の嫌悪感をぐっと堪えた。
胸に空間がぽっかりと口を開くようだ。闇の入り口のように。
冷たい風が、心の大切な部分に触れていく。そんな心持ちだった。
楸瑛は淡々と、言葉を紡ぐ。

「私の父は、妻である私の母の他に幾人か愛人を持っていてね。無論異母兄妹も少なくない。結婚とはね秀麗殿、必ずしも愛だけでは成り得ないんだ。藍家や紅家だからというのも理由にはあるんだろう。
でもね、そうではなくて。
私は私の想いが信じられない。その女性は美しかったり可愛かったりする訳だけれど、同じように他の魅力を持つ女性はこの世にたくさんいるわけだよ。一人に絞ることの不確かさを、どうしても認めたくはないね。相手が離れていくのが恐いわけじゃなくて、恐れているのは私自身になんだ」

「―――― 大人、なのに?」

秀麗はぽつりと呟いた。
大人なのにね、と楸瑛は苦笑した。

「…… 美しい女性たちは嫌いじゃないけれどね、それだけさ。こんな男は嫌いかい?」

秀麗はふと眉を寄せたが、答えなかった。
答えを求めていなかったらしい楸瑛は続ける。

「庶民でも、例え貧しくとも―――…美しい女性でなくても、たった一人この女性だけだと愛せる方が、私にはずっと幸せに思えるんだ」

ああでも私に似た男には近づいてはいけないよ。碌な者ではないからねと告げる片隅で。
何を話しているんだろうと、思いもする。
一度くらい、自分と同じ共感を持たない誰かに吐露してみたかったのかもしれなかった。
秀麗はこんな話をしても、自分を真っ直ぐに見上げてくる。
その視線には熱があるように思う。熱い。楸瑛は瞠目した。
肌寒い灰色の風が、ゆるりと二人の空間を漂う。
私はまだ子供だから、よくわかりませんけど、と前置きをして、秀麗が傍らの茶器に両手で触れた。
勉強の合間に喉を潤せるようにと、常に楸瑛が用意している茶である。

「私も、恐いと、思います」

楸瑛が顔を上げた。
抜け出すのは、きっと苦しくて辛い。相手を傷つけることも、何より恐い。
秀麗は重ねて告げる。

「藍将軍は……、臆病なんですね」

「…… 何がかな」

「ご自分を誰かに預けてしまうことが恐いと、そう仰っているように聞こえます。確信を持てるたった一人の女性をずっと探し続けているのではないですか?…・・・私には、そう聴こえましたけど」

たった、一人。
楸瑛にそのような戯言を告げた人間は一人もいない。
書物の項が、一枚風に捲られる。
男は、眉を顰めていた。
強く。
秀麗は、あの、と気遣わしげな声をかけた。

「ああ、違うん だ」

そう、違う。
不快になったわけではない。驚きはしたが、それが真実ではない。
堪えるには、こうすることしかできなかった。
自分という人間を知りながらそう告げる人間が、この世に存在するなんて。
秀麗はふと、考えてから笑みを向ける。

「楸瑛様は、真摯な方なんですね。きっと、とてもお優しいんだわ。誰かの為に、楸瑛様の全てを取っておいているのでしょう」

「――― 取って、おく?」

楸瑛は寄りかかっていた卓から身体をどけた。
もしかしたらとさえ、思ってしまう。
君なのか、とさも。
言葉にできなかった。自分がそう考えて行動していたわけではない。それでも少女が紡ぐ言葉に、強く揺さぶられる自分がいた。
心の扉の外を幾度風が叩こうと、花が啼こうと、それはびくともしなかった。
今。今その扉は抉じ開けられているのか。まさか。
秀麗はすぐに頷いた。
先程までの試験勉強の問答で解のわかった時のように。
当然の答えだと言わんばかりの呆気なさで。


「いつかお逢いできる唯一の女性に、愛情も本来のお優しさも」



――――― 泣きたく なった。