一歩も動けないような哀しみさえ、
苛立ちに戸惑う悲しみさえ、
貴方は微笑んで抱きしめるのだ。



――――それは、慈愛にも似た




蒼想



悲しみの矛先は狂ってしまった。方向を見失った槍は闇雲に周りを傷つける。
とめどなく流れるこれは何だろう。優しさではない。悲しみでも怒りでもない。
――――これは。


 楸瑛は欄干に手をかけて、空を見上げた。柔らかく滲んだ紅色は既に遠く、夜空には微笑むように光る星たちが瞬いていた。見上げるというのは存外気分が良くないものだ、と感じると同時に、いつか同じように空を見上げて美しいねと笑ったことがあった。思い出し、表情を変えないままに目を伏せた。どうしようもないことで悩むのは得意だが、諦めるのも得意だというのにこの様は何だ。片割れの同僚が今日はいなくて良かった、と心底思う。
焦燥にも似た想いを消し去りたい。
心からそう願うというのにそれは気づけば根を張り、涙のように悲しみを増していく。

「悲しみで溺れてしまいそうだよ、」

 風が呟きを掻き消した。欄干を軽く叩くと、振り切るように歩き出した。
 王の傍こそが彼の職場であるが、今は政務の最中につき、楸瑛はすぐに戻る気はなかった。同僚に見抜かれる可能性は限りなく低いが、それでもやはり遠慮しておきたいし、何より王はやたらと目敏い。やれやれ、と内心どころか全身で嘆息すると、あてもなく宮城をふらふらと歩いていく。
 春の訪れが近いせいか、陽光は口づけのように甘く降り注ぎ、鳥の囀る声も多い。
そのまましばらく歩いていくと、ふと足を止め振り返る。懐かしい匂いがした。
楸瑛は顔を崩して笑みを作った。

 ふうわりと控えめに、近づくと大輪が如く咲き誇って薫る花。
赤い花弁は静寂に舞い、そしてゆっくりと楸瑛の頬を撫ぜる。彼女のように。
一瞬の瞠目の後に、苦笑しつつも颯爽とその大木へと近寄った。
 彼女の愛した花。唯一、少女のように愛らしく、薔薇のように優雅に微笑む顔を見ることができた木と同じものだった。距離は変わっていない。けれど、永遠に誰よりも届かぬ距離に離れてしまったことは自分が良く知っていた。誰よりも、自分だけが。
そっと、殺すように細く長く息を吐く。

『このお茶、すごく香りが良いんです。悲しいときや勇気が必要な時に飲むことが多い、
私のとっておきなんですよ』

 桜が好きだと微笑む、春風のような少女を胸に描く。優しい笑みに、温かい手。
そっと、けれど愛すべき存在だと思っていた。穏やかに流れる時間を気に入っていたように。
ふふ、と思い出して笑うと、大木の傍らに設置された卓に着き、近くを通った侍童に茶を言付ける。
瞬く間に茶の用意が為されると、楸瑛はそっと聞茶用の器を手に取った。

『藍将軍はとてもお強くていらっしゃるから、もしかしたら使われる日なんて来ないかもしれませんけれど』

でも。と。
高い少女の声は、心地よく耳に滑っていくのだ。
ああ、どうして。
楸瑛は肘を付き、目を伏せた。

『人は弱いものなんです。王様の劉輝でさえそうなんだもの、きっと、藍将軍…じゃなかった、楸瑛様にも必要な時が来ますから』

「――――-君の…いや、その通りだよ」

翡翠を今日の陽光に溶かしたような色の茶を眺めて、茶に映った自分に苦笑する。
何かが終わったわけじゃない。何も始まらなかっただけで、要は何もないのと同義なのだ。自分の想いは形になることもなく、いつしか風に紛れるように消えていく。風化するでもない、ただ、存在しないようにひっそりと息を引取る。
その、無常さに打ちひしがれているのだろうかと、しばし慟哭の叫びが全身を襲った。けれど耐えた。
―――――耐えられるものだった。

『そのときは、どうぞ良かったら思い出してくださいね。』

「思い出したよ。ちゃんと……ね、秀麗殿」

 文を出そうかと、考えた。
何も書くことなどないのだが、それでもその文が、彼女が開いてくれるのだとその瞬間を思い、楸瑛は笑った。首を傾げて、それでも必ず返事をくれるだろう。そうしてまた、彼女は私の手を引く。もちろん、彼女は多くの手を引いているだろうが。
 愛した人を後悔しない。それでも歩いていくことを知ったからだ。優しさの溢れる道を振り返ることはできない。

「そうだね、ちゃんとしなくては。私としたことが…―――-さようなら、 殿」

風は舞うように楸瑛の髪を乱し、花弁が微笑むように翡翠の水面へと降り立った。




「おや、楸瑛殿。あなたがお一人とは珍しい。何かありましたか」

「いいえ、邵可殿。突然おしかけて申し訳ありません。何かがあったわけではないのですが、ね」

 席を勧める邵可に楸瑛は苦笑しつつも礼を言って腰掛ける。
文机に掛けていたらしい邵可が明らかに仕事中だったとわかると申し訳なさが先立った。けれど謝る前ににっこり微笑まれて諦めた。茶に口をつけると(口を付けただけで飲めはしなかった)、いそいそと邵可が近づく。

「今日は暖かくて陽気が良いですからね。主上もこちらにいらせられれば良いのですが」

「ですね。ああ、しかし…あの仕事の量ではとてもとても」

互いに見合わせて苦笑する。邵可は訪ねた理由を聞きはしない。それが分かっていたので楸瑛は切り出そうと口を開いた。

「ああ、そうでした藍将軍。あなたにお渡しするものがあったんですよ」

「……私に、ですか」

いそいそと文机に戻る邵可に、楸瑛は眉を上げた。
そして卓に置かれた文に目を瞠り、ついで文の贈り主の父親を見やる。

「今朝私の処に届いたんですよ。彼女の現在の官位なら直接送れる筈なんですがね。きっと、将軍位の官吏に向けてではないのでしょう」

私たちの共通の友人である、大切なあなた自身に、と。
そう微笑まれて言葉をなくした。
手に取ると不躾とは知りつつもそのまま開く。邵可は微笑んでお茶を啜っていた。

一行の文と、菫色の花弁。

『楸瑛のお心が茶州の空のように、春のように晴れますよう』

紅 秀麗


花弁はわざわざ乾燥して加工まで施してあった。
楸瑛は泣くように微笑んだ。泣きたかったわけではない。笑いたかったわけではない。
ただ、彼女が居たこと。
無性に、抱きしめたくなったことが当然のことのように思えた。


世界は彼女で回る。
あいしているから。


告げたらどのような顔をするだろう。
それすらもきっと、楽しい。


 楸瑛は邵可に向き直ると、衣の合わせから一通の文を取り出そうとし、そのまま躊躇って仕舞いこんだ。
宮城の中庭に目を向けた。そこには白い花弁の桜が満開で咲いていた。
陽の当たりがとても良いせいだろう。
眩しく金色の陽光に楸瑛は目を細めた。輝く世界に、歩みを止めることは許されない。
邵可はその様子に微笑んで、同じように窓の外を眺め、空を見上げた。
天空まで透き通っているように、高く、青い。



「――――- ああ、春、ですね」




恍惚のような春の一瞬に、彼女が芽生える。