雫言



慈しむことと、愛おしむことと、全てを分けて行うことなどできはしない。
薔薇の如く。桔梗の如く。花は舞う。
霧雨の天幕に、唇を寄せるような美しさで。

雫言

連日雨が続いていた。 酷暑に比べれば過ごしやすい。ましてや雨は薄衣のように窓の外を遮り、雑多な音を遮断する。雨の日は静けさに心が凪ぐのだ。 絳攸は執務机に書物を広げていた。机の前の窓からは、視界を遮るような雨が降っているのが見える。風はないのか、窓を開けても入ってくることはないらしい。 開いた窓の外の冷えた空気に、そっと息をつく。ひんやりとした、瑞々しい雨の香が胸を満たす。 珍しく執務が早く終わって片付いたものの、それは一時的なものでしかない。たまたま所用で紅州へと赴いた吏部尚書の代理が絳攸へと転がり込んできただけだ。 結果、この何週間かは比較的平穏な執務情勢が続いている。いっそ尚書印を自分が押したほうが早いんじゃないだろうかという疑問は隅へ追いやり。 今だけは書物に目を通す時間まである。ありえない夢のようだとふと遠い目をした。 その絳攸の目に、窓の外の白い花が飛び込んできた。窓の外を覗き見る。
花菖蒲。
真白なそれは、自分と同僚が賜った紫の花菖蒲とはことなり、濃緑に包まれた清清しい白だ。 その花を見据えながら、絳攸はこの宮城にいるであろう少女に思いを巡らせた。穏やかな雨音に、心が揺らぐこともなく。 紅の印象が強いが、実際の少女―― 紅 秀麗にはこのようなあどけない白い花が似合うと思う。疑うことをせず、諦めることをせず、ただ純粋に、高みだけを目指す少女。 恐いくらいだと、思うこともある。恐れるのは傷つくことなど全く省みない秀麗が、いつか大きな傷を負うのではないかと、そういうことだ。 元気です、と微笑む裏で、泣き出してもおかしくない年頃の少女だということを、自分もまわりの人間も忘れがちであった。 そういえば、とふと顔を上げる。 この吏部侍郎の執務室に彼女が入室したことはないのではないか。階級を軽視してはならないのはもちろんだが、何故かこの花を雨の降る今、見せたいと思う。 穏やかな今の時間に、彼女が傍らに居たならば。頬を緩ませた微笑の後、絳攸は席を立って扉を開ける。 歩き始めた回廊の奥に、ゆらゆらと歩く不安定な人影が一つ。その妙な人影に絳攸は訝しげに近づいてみた。それは大量の書翰を持つ小さな官吏の姿であった。 ふと、眼差しが優しく揺れる。先日蜜柑を共に食べたときのような焦燥は既にない。背後から浚うように書翰を持ち上げると、高い驚きの声がした。 見上げる視線は煌めく黒水晶のようだと思う。きらきらと煌々と、常に光の灯る。
「な、何ですかって…… 絳攸様!」
「こんなに持っても歩けないだろう。こんな所で一体どうした」
「資料室から借りてきたものなんです。他州の情報も勉強したいと思いまして」
そうか、と頷くとまたお会いしましたねと弾むような声色に、絳攸は頷き片手で秀麗の頭を撫でた。 目を伏せるように、噛み締めるように唇を結んで微笑む秀麗は幼子のようでもある。 この回廊から一本で自分の執務室へと戻ることも出来る。迷う必要も全くないとは、今日という日はなんてついているのだろう。 雨天のせいか薄暗い回廊を、自然と二人で歩き出す。
「これを何処まで持って行こうとしていたんだ」
「閲覧室ですけど、雨のせいか近くは混んでいたんです。だから、戸部近くまで行こうかと思ってるんですけど」
「こんな大量の資料をか?無茶だろう。…… ああ、そうだ」
自室の前まで来ると片手で扉を開けてみせる。 俺の自室だと告げると、礼を失うと判っていても興味で秀麗は視線を巡らせてしまう。その様子に苦笑する。 自室の窓は微かに開き、雨の匂いと音がする。 今日は慌てることもない。口元から自然と言葉が零れていく。
「寄って行かないか。茶くらいは出そう」
穏やかなままの絳攸に、秀麗は頬を染めて破顔した。

自室に誰かを招くことなど少ないせいか、部屋は閑散としていた。それでも書物の類は厳重に保管されており、書棚を見上げて秀麗は溜息をついた。 対して広くもない執務室だが、今はこれでも広いほうだ。年間の八割以上はこの部屋は書類で埋め尽くされている。 綺麗になさってるんですね、という素直な褒め言葉に絳攸は苦味を堪えるような顔をした。 きょとんと瞬く秀麗は、慣れた動作で茶器に湯を入れる。入れると進言した絳攸より、秀麗の方が何倍も得手であることは明白だったので自然と茶器を秀麗が手に取ったのだ。 明るいとはいえぬ薄暗い部屋の中、沈黙は心地よく流れていく。 絳攸は雨の匂いと緑茶の香に、より心が穏やかになっていくのを自覚した。目を伏せるように秀麗は茶を淹れているが、自分が誰かと居て寛ぐことなど珍しい。 秀麗が先に、口を開いた。
「この前は悠舜さんがいらっしゃいましたし、こうしてお話できるのは本当にお久しぶりですね。絳攸様」
「あ、ああ。そうだな」
「褒めていただけるのが、実はとっても嬉しくて。絳攸様に認めてもらえることが、私にとっては何より自信になるんです」
「そうか。……しかし、油断はするなよ」
当然のように頷く秀麗に、茶器を手渡された絳攸は視線を細める。 静かな執務室にくゆりと茶の湯気が漂って、秀麗の目元も緩んでいくのがわかる。
「――― 静かだな」
「え?」
「このように静かな日も、時間も、久しぶりだ」
「そうなんですか?……私もです。でもこういう時間って、とても好きです」
「…… ああ。俺もだ」
共有できる静寂が、どれだけ貴重で稀有なものであるのか。おそらく少女は知らないだろう。 交わした目線に、そっと茶器に口をつけたまま二人は微笑んだ。 たわいもない話も、間に落ちる沈黙も、全てが穏やかだった。そうだ、と絳攸は立ち上がり、執務机の方へ秀麗を招き寄せる。 秀麗は首を傾げて近づいた。
「何です?」
「見てみろ」
笑んだまま指差された窓の外へと、秀麗は身を乗り出した。傍らの絳攸はその場所を譲ってやる。 共に視線の先には―――白き花菖蒲。
「花菖蒲……?」
「そうだ。誰が植えたのかは知らんが、最近気がついたんだ。尤も、俺たちが賜ったのは紫だが」
「でも、綺麗ですね。雨に濡れてもしっかり花咲いて、しかも白い色が際立って見えます」
「ああ。…… その、」
窓の方から見上げるように秀麗は絳攸に振り向いた。 絳攸は頬がだんだん紅潮していくのを実感した。動悸も激しいが、それでも醜態を晒すほどではない。 二人、だからなのだろうか。
絳攸はそう思い、秀麗の簪を挿し直してやる。つと、長い指の先が秀麗の目元に触れ、絳攸はその温い熱に指を止めた。 少女の長い睫が微かに震えた。その目元をそっと、辿る。 笑えているだろうか。きっと、微笑めていると思う。絳攸はそんな自分を自覚していた。 ――― ずっと前から。

「お前の、ようだと。そう思った」

雨の中でも凛と花開いた花菖蒲。紫の多いこの花だが、真白に気高く花開き。 雨の雫すら装飾のように変え、天だけを高く仰ぐ。 自分の中の、彼女そのものだと。思った。
雨は、まだ止まない。