← back to index
足を踏み出し、支えられ
ドリーム小説 今、なんと言った。
これまでにないほどには耳を疑った。それでも直前に耳に入った言葉が一気にを沸騰させる。
「それはむしろ――――魯官吏ではありませんか!」
ざわりと皮膚が泡立つ。脳内で正確に再生されたそれに。ああ、だめだとは思った。
駄目だ。駄目だ。駄目だ。動くな。
自分は見守らなくては、冷静に止める側でなければならないのに。
頭の冷静な部分が、なにを取り乱しているのかと嘲笑うけれど、丁寧に切り揃えられた爪が皮膚に食い込む。その痛みにさえもは気付かなかった。けれどそうでもしなければ、この場で男を殴ってしまっていただろう。
「…
自分を呼ぶ、上司の声。
緊張をほぐすように、は息を長く吐いた。そして何時ものように微笑む。
「腹が立ちます、ね」
「そうだな」
ふと見ると、劉輝が笑っている。
やがて劉輝の指示に上司が立ち上がり、は高官達の背後からそれぞれ書類を配っていった。それに高官達が目を通す。ざわめきが起こるのは当然のことだった。
今年発行の銀貨の行方に、益々追い詰められる男。
無知ゆえの黄尚書へ責め立て、あわてる高官達、一気に下がる上司周囲の温度。今のは自分に向けられているものではないし、主に養い親のせいでは慣れてはいる。とはいえ、やはり大きなものはそう頻繁に起こるはずもなく、余り遭遇したいものではなかった。
「ああ、何て今日は幸運なんでしょう!何しているんですか、退きなさい」
しかし当然のように玉は目を輝かせながら黄尚書の正面に居座り、役職ゆえにと景侍郎は黄尚書の傍に控える。周囲への影響を危惧する優しい景侍郎には申し訳ないが、も上司の素顔を見るのは久しぶりになる。
夏に景侍郎や秀麗は見たらしいが、残念なことにはその時「敵さん」を彼の庭でなぎ倒していたので見ることが出来ていない。黎深のようにわざわざ外してくれなどと気軽に言えるわけもなく、玉ほどではないがもその時を心待ちにした。
上司の手が仮面に伸びる。周囲の悲鳴を聞きながらは少し見とれ、けれどすぐに筆と紙を手に取った。
無事証言が取れ、黎深が現れる。狂ったように叫ぶ蔡尚書。飛び込んでくる町の少年、開かれる査問会。
官吏になりたかったから官吏になったと秀麗は言った。女でも男でも関係ない。自分の出来ることをしに来たと。その言葉を綺麗事だとは思う。愚かだとも思うけれど、少し前ほどそれに苛立ちを感じることはなかった。
「…随分と、感情豊かな人間になったものだ。この私が」
けれどもしかしたらそれは、目の前で少しばかり面白いことが起こっていたからかもしれない。どうにもくすぐったいような気がして、はくすりと笑う。
誰にも見られぬようにそっと開いた自らの手。そこにはっきりと爪痕が残っていた。



全ての質問に答え、凛と顔をあげた秀麗。それを確認し、は懐に一度手を押し当てて顔をあげた。
「恐れながら主上、申し上げたき事があります」
しんと静まっていた殿内に、少し高めの声が響く。
突然そう言ったに殿内はざわめき、周囲の視線が集まる。その視線を受けたまま、は戸惑っている秀麗の横に進み出た。ざわめきが静まり、ある程度の緊張がと劉輝の間を漂う。
聞こうと劉輝は答えた。
書状を絳攸へと渡す時、の腕にあるものがしゃらり音をたてる。
「……これは…!」
絳攸から書状を受け取ると、驚きの声をあげて劉輝は何度もその文章を何度も読みなおした。
「―――女人ながら官吏になることを命じた…!これは真のことか、霄太師」
劉輝の声にこれ以上ないほど騒がしくなった殿内を見まわし、楽しげに霄太師は笑った。嫌な顔だとは思った。
「ええ、今から六年前の冬でしたかのう。先王陛下は彼女にこうおっしゃった。『殺されたくなければ、官吏になれ』と。懐かしいのう」

『あの兄を殺されたくなければ、お前が官吏になれ』
白銀の剣を押しつけて先王はそう言った。

たしかに、霄太師が言ったことは嘘ではない。
しかし。
彼の存在を消されたようで腹が立つ。そんな資格はもうないのだけれど。
気づけば薄らと、は微笑んでいた。それは自分でもよくわかる、自嘲の頬笑み。
「はい。確かにそう先王陛下は仰り……私は官吏になる方を選びました」
「何故、今なのだ」
ほう、と出そうになる安堵のため息を飲みこむ。
もう大丈夫。
何故とわかっていて劉輝は聞いていた。言わずともの意図を彼は気づいていた。滑稽な芝居に理解して乗ってくれている。確かに、まだまだ先王には及ばないけれど。いつか全てを見抜くようになるかもしれない。その始まりを今、見た気がした。
そして今、厳しい表情の裏で彼は悲しみ傷ついている。
それでも利用しろ。
「私が女人であることを、陛下も黄尚書も景侍郎もご存じなかった。それでも私は侍郎になることが出来ました」
「しかし紅尚書は知っていたのではないか?絳攸は?」
劉輝の問いに、絳攸が首肯する。黎深も見えないが、肯いているのだろう。それでいい。
「ですが」
景侍郎が反論する。
が侍郎になったのは吏部の力ではなく戸部施政官から推薦があったからです」
「ただでさえ人材のいない時に、本人は随分と渋ってくれたな」
若干の苛立ちの入った黄尚書の声がさらに、現実味を伝えているだろう。
それが、とてもありがたかった。
大丈夫と今度は自分に向けては呟いた。




← back to index
html : A Moveable Feast