傍にいるだけで満足できたら
ドリーム小説 「藍将軍?」
控えめに呼ばれた声で、楸瑛は考え事を頭の隅へと素早く押しやった。
「これは……」
結われていない、闇に同化するような黒髪。筆頭女官と同じぐらいの背丈。
自らを呼んだ女官に、楸瑛としては珍しく全く覚えが無かった。
「はじめまして、ですよね?と申します」
その微笑が、少し昔の傷跡に触れる。
「……………では、殿。こんな時間に何をしているのです?」
髪も結わずに。
「それでは、私のような男を誘っている様なものですよ?」
冗談めかして問う。さあ、どうする。
頬を染めるか、妖艶に微笑むか。
しかし、あっけらかんと言われた言葉に、しばし思考を停止してしまった。
「ええ。藍将軍を誘いに来たのですもの」
誘うと言いつつ、その言葉にはそういう艶が全く無かった。
「それは、どういう」
尋ねるが答えは無く、楸瑛は誘われるまま、の部屋へと訪れた。
出された藍州特産の茶の香に、警戒する事も無く飲み、はっとして茶器を見た。
「これは一体、何ですか?」
「苞啓茶と言います。お口に合いましたか?」
「…とても」
今までに無いほど、ほっとする味。
「それは言っていただけると嬉しいです」
こと、と茶器を置く音がした。
「………叶わない思いを抱き続ける事はつらい事です」
驚いて楸瑛はを見た。
「けれど、それでも傍にいる事は出来るのでありませんか?」
は微笑んで楸瑛を見ていた。
中身が見えない。
目が、離せない。
「……そんなに、私は強くはありません」
気付けば本音が口から出ていた。
そしてそれは、先ほども心の内で反復していた事だった。
そんな事で満足なんて出来ない。
「傍にいたら、苦しいだけでした」
わずかには眉をよせた。それを隠すため、は空になった茶器を持って席を立ち、楸瑛に背を向ける。
かちゃかちゃと茶器のこすれる音がする。
「それは、贅沢ですよ」
「何故です」
「傍にいられたことがどれだけ貴重な事か」
られた、と彼女は言った。
「何を、何を言っているんです」
「……人は脆く。この世に永遠などはありえません」
振り返った彼女の表情に、先ほどから、変化は見られない。
「いつまでお逃げになるつもりですか?」
これは、何だ。
見透かされたような言葉に、今度こそ恐怖が沸く。
気がつけば楸瑛は一人、後宮の廊下に立ち尽くしていた。
記憶を探れば、逃げるように去ってしまったが、仕方がない。
その問いは、自分に答えられるはずもなかったのだから。
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