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恐れていること
ドリーム小説 有名になる事の欠点に、こんな事は考えてなかった。
軽いため息と共に、は絵巻物を壁近くの山に投げる。適当に投げたそれは、それ程価値の無い箱に当たり、床を転がって行く。まだまだ続くだろうそれらに、本当の意味でこの時期の弟の苦労が分った気がした。
留め置きが決まった数日後、ついに部屋には無視できないほどの山が出来た。吏部尚書の屋養い子、吏部侍郎の兄。除目の前に急に現れたに、官吏達は飛びついた。煌びやかな布に、お祝い名目の手紙、縁談。手紙に多いのが絳攸関係の物だ。少し前に読んだ文も、弟君(おとうとぎみ)によろしくお願いしますという内容であった。唯我独尊の父親よりも、生真面目な弟の方がの影響を受けるだろうと考えたらしい。
どうせ徹夜しても終わらない。見切りを付けて机の明かりを消し、大きな満月を眺めつつ廊下を進むと、程なくして養い親を見つけた。何も言わず、横に座る。何も無い廊下には彼にしては珍しいほどに酒瓶が並んでいた。
「……飲み過ぎですよ」
普段通りの愚痴を望んだが、無言で目の前に杯を突き出される。どうやら言う気は無いらしい。
望まない方の理由で酒を飲んでいる友人に、仕方が無いかとは杯を受け取った。



「景…柚梨さん」
何時もの様に呼びそうになって、言い直すのは何度目だろうか。の苦笑に、景侍郎は微笑ましいと言わんばかりの顔をした。
「柚梨で構いませんよ」
「さん付けさせて下さい」
彼と同じ様に黄尚書を普段から鳳珠様と呼ぶよりは、これでも譲歩したつもりである。
「仕方がないですね」
折れてくれた事に少しほっとして、用件を言う。
「黄尚書に持っていくものはありますか?」
「ええ、ではこれとあれとそこの山をお願いします」
「はい」
風に飛ばされそうになるのを顎で押さえながら、尚書室まで運ぶ。
「李です。失礼します」
返事を聞いて室に入り、顔を上げる事無く仕事をしている上司の横に、書類を積み上げて行く。ざっと回りを見て処理済の書類を抱えると、それとほぼ同時に声をかけられた。

視線を感じて黄尚書を見ると、珍しく筆を止めて顔を上げていた。当たり前ながら表情は見えないのだが、何故か苛立たれているとは思った。何かしただろうか。
「お前は侍郎だ。そんな事はしなくて良い」
「しかし鳳珠様………」
「私が良いと言っている」
まるで養い親が言いそうな台詞に、よもや黎深の影響を受けたのではと思っただったが、それはすぐさま無駄な危惧となった。
「前にも言ったな。考えないために仕事をするなと。…何があった」
仮面越しの鋭い視線に、何かが取れてしまいそうになる。まるで箱の蓋が開く様に。
「何かは、ありました。でも、それを言葉にする事が出来無くて」
いや、もしかしたら恐れているのかもしれない。自分が普通の女のようにそれを理解する事を。そう、恐れているのだ。にとってそれは、掴もうとしても掴めず、なのにいつも傍にいて周りの人間に影響を与える物だったから。
「やはり、これは返して来ますね」
再び尚書室を出て行こうとするに、この度は黄尚書も止めず、各尚書への伝言を言っていった。



「もう少し……」
未だに弟よりも低いは、危なっかしげに爪先立ちをしていた。
侍郎のが、府庫に行くのは珍しい。そうであるのに、今日に限って見つからない踏み台が憎かった。
「……っ」
ふらりと後ろに倒れかける、を支えたのは見慣れない顔だった。男が誰であるか理解した直後、肩に触れている手の熱さに急には緊張する。
「どれです?」
普段の顔で笑う彼に、は自分を焦らせた本を指差す。
「上から二段目の薄いの」
本棚が詰まっていたのだろう、楊修は片手で他の本を押さえながら、もう一方で本の背を掴む。楊修の服が髪にあたってこそばかった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
ここは外朝。侍郎が官吏を敬うわけには行かない。
楊修の裾を少し引き、資料を置いた奥の部屋に進む。かちゃりと軽い音を立てて鍵を閉めて振り返ると、そこにいたのは何時もの楊修だった。
「どうです?戸部侍郎は」
「まだまだ未熟だと言う事を実感させられています」
「そうですか」
窓から李の花びらが入って来て、二人の間を落ちて行った。
もう話は終わったと再び鍵を開けたの背に、楊修の言葉が投げかけられた。
「この頃上司がですね、妙に睨んでくるのです」
「………いつもの事でしょう」
背に感じた視線は鋭かった。
府庫を出て、が向かったのは礼部、刑部。そして今は戸部へ帰る道すがら、再び礼部に向かっていた。訂正されただろう書類を、受け取るためだ。
先ほど見た所、渡す書類には留め置きの際に使う予算が書かれ、所々に戸部尚書の駄目だしがされていた。特に酷いのが硯や筆についての欄だ。
これに関してはあの尚書が関わったのではないだろうと、は思っていた。上司がああなので、部下まで緩む。あの金額は、にとっては戸部への侮辱に近い。それゆえ、工尚書からの伝言も『春になって、礼部は部下まで頭が緩んだようだな』だった。
「失礼します」
「おお、李侍郎」
「出来ましたでしょうか」
が無表情でそういうと、蔡尚書は慌てて書類を差し出した。確かに所々見直されている。だが。
「しかしながら蔡尚書。此処と此処はどうあってもこの額では黄尚書は頷きません。明日までに再検討をお願いします」
「は、はい。ところで李侍郎」
言う事は言ったと出て行こうとするを、蔡尚書は引き止めた。
「何でしょうか」
「あなたも紅尚書のご養子だそうですが、同じご養子ながら戸部侍郎では吏部侍郎の弟君よりも地位が低い。悔しくはありませんか?紅尚書は弟君ばかり気にかけているではありませんか。それに紅尚書は冷徹な方です。いつ、どうなるともわかりません。私は進士の頃からあなたは弟君よりも遥かに才があると思っておりました。どうでしょうか、及ばずながら私がお手伝いしますが?」
は目を細めた。

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